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ル・ナン3兄弟 | |
( 1600-) | |
フランス バロック、古典主義 | |
17世紀、最大の「農民画家」。 彼らは農民ではない。19世紀中頃まで、忘れられていたいたので、生涯、作品など、詳しいことはわかっていない。 3兄弟で、ピカルディ地方のラン出身。裕福な家庭に育っていることは分かっている。 いずれも生地で絵画を学んだ後パリに移り、自由な修行が認められたサン・ジェルマン地区に定住。 イタリア的古典主義がパリで盛んになるにつれ、風俗画、とりわけ農民を描いた作品に新境地を見出す。 パリにやってきて、1620年代の末には、名を知られた存在になった。パリのプティ・ゾーギュスタン修道院礼拝堂に「聖母の生涯」を制作している。 教会や私邸のための歴史画家、肖像画家として活躍。パリ市庁やルイ13世の庇護を受け名声を高めていく。 1648年の王立絵画アカデミーが創設されたが、兄弟三人ともに、その会員に認められている。 同年、1648年5月に、ルイとアントワーヌが相次いで亡くなった。 一番末の弟、マチュウは健在で、1662年、サン・ミッシェル騎士団の印綬を受けるまでになった。貴族の仲間入りをしたのである。 しかし、その後、マチュウは、かつて自分が画家であったということを、隠していたらしい。ル・ナン兄弟が忘れられていったのも、こういった理由によるのかもしれない。 ひとつ、謎がある。彼らが、なぜ農民画を描いたか、ということである。いったい、誰の注文で、どのような目的で描かれたのか、分からないからである。絵画そのものも、はたして、当時の農民を写しているかどうかも疑問が残っている。 当時は農民は貧しかった。しかし、ル・ナン兄弟の絵の農民は、さほど、貧しい服装をしていない、という説がある。 当時の新興市民たちは、少しずつ豊かになっていた。その中で、特に豊かになった市民は農村に自分の農場を買ったりしていた。この絵は、その買った農場へ出かけていった、市民なのではないか、という説である。 もう一つは、この頃、宗教団体が、貧しい農民に対して、慈善活動をしていた。「農家の食事」などは、その慈善活動ではないかという説である。 いずれも、まだ、仮説の段階なのだそうだ。 アカデミー美学が主流となった17世紀末からは、無視されるに等しかったが、19世紀半ばに再発見され、今日ではフランスを代表する作家とみなされている。 |
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ル・ナン 【 バッコスとアリアドネ 】 1635頃 | 102 x 152 cm |オルシアン美術館、フランス | |
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ル・ナン 【 聖母の誕生 】 1640頃 | 220 x 145 cm |ノートルダム大聖堂、パリ | |
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ル・ナン 【 家の前の農民 】 1640頃 | 55.2 x 70.5 cm |サンフランシスコ美術館 | |
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ル・ナン 【 幸福な家族 】 1642 | 61 x 78 cm |ルーヴル美術館、パリ | |
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ル・ナン 【 風景の中の農民 】 1640 | 47 x 57 cm |ワシントン・ナショナル・ギャラリー | |
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ル・ナン 【 礼拝堂のある風景 】 1640 | 41 x 55 cm |ウォズワース・アテネウム、ハートフォード | |
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ル・ナン 【 ロバ 】 1641 | 51 x 59 cm |エルミタージュ美術館 | |
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ル・ナン 【 農民の家族 】 1640頃 | 113.3 x 159.5 cm |ルーヴル美術館 | |
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ル・ナン 【 農家の室内 】 1640頃 | 55.6 x 64.7 cm |ワシントン・ナショナル・ギャラリー | |
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